国は目薬を無償で配布しろ

国は目薬を無償で配布しろ


べつに政治的な主張じゃないので安心して聞いてほしい。

僕は目が悪い。中学3年生から「こりゃだめだ」と思ってメガネをかけ始めた。

最初は抵抗があったし、「メガネ」にいい印象を持っていなかった。コンタクトも考えたけど、目に指を突っ込むことに恐怖感があった。だから、黒縁の「ザ・メガネ」なフツーのメガネを買ってもらった。

高校生、少し色気づく頃、僕は一度真剣にコンタクトを検討した。でもあっさりと無理だ諦めた。僕は昔、逆まつげの手術を受けたことがある。まつげが内側に丸まっちゃうから治そうね~、とよく分からないままに手術を受けた。結果、たぶん逆まつげは治ったと思う。他の人に比べたらまつげの反り具合に元気はないかもだけど、別にちゃんと外側を向いている。でも一つ問題があった。まつげが目に入るのだ。逆まつげの人あるあるらしいけど、まつげが抜けやすく、かつ目に入りやすいのだ。毛の向きは治ったけど、毛の特性はどうしようもなかったらしい。一日一回は目に異物感を感じる。当然、そんな状態ではコンタクトはつけられない。僕はあえなくコンタクトを断念することにした。

メガネはどこまでいってもメガネであって「個性」=「メガネ」感が否めない。お調子者だってメガネをかけているけど、なんかスタイリッシュだったり、おもしろメガネだったり、「メガネ」に「個性」がある。それに対して僕はフツーの黒縁。何も喋らなくても「フツーのメガネ」程度のやつだと思われる(被害妄想である)。

それにやっぱり色々と不自由を感じる。授業中に寝るときはメガネを外す。メガネを掛けてない人間はうつらうつらしながらスッと眠りの世界に入っていける。でもメガネを掛けてる人間は違う。寝るなら寝るでメガネを外さないといけない。もし、メガネを掛けたまま寝ればフレームが歪んで絶望的なことになる。それにフツーに寝にくい。

メガネを掛けている人間は、「寝る」=「メガネを外す」なので一度寝る決断をしてからでないと寝れない。なので、うつらうつらしながらそのまま寝れる人種がうらやましい。

でも、そんなことは割とどうでもいい。慣れっちゃあ慣れだから。それよりも大事でメガネ人にとっての生命線とも言える問題がある。それは、「メガネを外す」=「寝る」の方程式が世間様に知れ渡っていることだ。たとえば先生が教壇でクラスを見渡していたとしよう。腕を組んで机にのせてる「警戒レベル:1」、明らかに目が半開き・首が座ってない「警戒レベル:2」、うつむいて顔が見えない「警戒レベル:3」、メガネを外している「おい、お前!!」である。

メガネをしてる人間がメガネを外すことは、先生に対する「寝ますよ」の宣戦布告である。別にこっちはなんとも思っていない、ただ寝るだけだ。でも先生からしたら立派な挑発行為だ。だって、「寝る」って決めて寝てるんだもの。気がついたら寝てたやつとは違うんだもの。まったくもって遺憾である。メガネを掛けていると言うだけでなぜこんな扱いを受けねばならないのか、こっちだって掛けたくて掛けてるんじゃないよ。

で、結局、何が言いたいか。それはもっと「目を大切にしろ」と大人が言わないといけないこと・言ってほしかったこと。「最悪、目悪くなってもコンタクトすればいっか~」なんて思っていたらコンタクトできない人間だった、なんてことになってほしくない。僕は中学生の時に深夜まで起きてアホみたいにゲームをしていたけど、こんなことになるなら辞めときゃよかったと思ってる。目が悪いとメガネ代、コンタクト代、眼科代、目薬代、といろいろお金がかかってくる。しかも、メガネはうつ伏せになったり寝転んだりできないし、コンタクトは付け外しが面倒らしい。僕はメガネであることで色々な不便をこうむってきた。あと目薬代も財布に痛い。

「目は一度悪くなったら戻らない」、これを本当のことだと受け入れたのは最近だ。ブルーベリーのアレとか視力回復法とかレーシックとか、まるで視力は回復するかのような宣伝が巷にあふれている。でも、元の状態に戻ることはない。これ以上悪くならないようにしたり、一時的な視力低下を回復させたり、眼球をけずって見えやすくしたり、色々書いてはいるけど結局生まれたときの目には戻らないのだ。

だから僕は、「目を大切にすること」を学校でもっと言ってほしかったし、目薬をさすっていう行動で目を大事にする習慣をつけておきたかった。目薬の効果云々はそれほど大事じゃない、大事なのは自分の目に関心を持つことだ。言葉で言われてもいつか忘れてしまう。だから自分の行動で目を大事にすることが必要だと思う。

だから僕は国に目薬を無償で配布してほしい。特に子供に。できれば大人にも。そうすれば、目を悪くする子供は少しは減ると思う。それに、僕の財布も少し助かる。