お湯を飲む

お湯を飲む。

 

自分にコーヒーは贅沢なのではないか。

ポットの前で、ふと思った。

マグカップ片手に当たり前のようにコーヒーを淹れようとしている。

一日中パジャマ、たいした収入もない。

そんな人間がコーヒーを飲んでいいのだろうか。

自分はコーヒーを当たり前と思ってはいけない。

おもむろに、何も入ってないマグカップにお湯を注いだ。

 

冷蔵庫にチーズケーキがあったので、それを朝ごはんにする。

かたわらには、コーヒー(お湯)。

まずはコーヒーを、一口。

不思議なことに、コーヒーの味がする。

いつもコーヒーを飲んでるマグカップだからか。

それとも、「これはコーヒー」と自分にいい聞かせたからか。

一口目は、ちょっとコーヒーの味がした。

 

二口目、チーズケーキを少し食べながら飲む。

コーヒーではない。

そして、お湯でもない。

お店で料理やデザートにセットでついてくるコーヒー。

あのコーヒーはあくまでセットで主役じゃない。

コーヒーは注がれるお水とほぼ同じ。

チーズケーキに押されて、飲み物の存在意義がなくなっている。

無料の味がした。

 

三口目、お湯の味がした。

ついに脳が気づく。

これはお湯。

お湯はコーヒーではない。

なので、お湯はお湯の味がする。

コーヒーはやはりコーヒーを淹れねばならない。

当たりまえの証明を終えた自分は、おとなしくコーヒーを淹れた。

 

お水に熱を加え、インスタントコーヒーを加える。

さらにそこに牛乳まで入れる。

このコーヒーは地球と宇宙の法則、人間の労働によって目の前にある。

そう思って飲むコーヒーは、贅沢の味がした。