お湯を飲む

お湯を飲む。

 

自分にコーヒーは贅沢なのではないか。

ポットの前で、ふと思った。

マグカップ片手に当たり前のようにコーヒーを淹れようとしている。

一日中パジャマ、たいした収入もない。

そんな人間がコーヒーを飲んでいいのだろうか。

自分はコーヒーを当たり前と思ってはいけない。

おもむろに、何も入ってないマグカップにお湯を注いだ。

 

冷蔵庫にチーズケーキがあったので、それを朝ごはんにする。

かたわらには、コーヒー(お湯)。

まずはコーヒーを、一口。

不思議なことに、コーヒーの味がする。

いつもコーヒーを飲んでるマグカップだからか。

それとも、「これはコーヒー」と自分にいい聞かせたからか。

一口目は、ちょっとコーヒーの味がした。

 

二口目、チーズケーキを少し食べながら飲む。

コーヒーではない。

そして、お湯でもない。

お店で料理やデザートにセットでついてくるコーヒー。

あのコーヒーはあくまでセットで主役じゃない。

コーヒーは注がれるお水とほぼ同じ。

チーズケーキに押されて、飲み物の存在意義がなくなっている。

無料の味がした。

 

三口目、お湯の味がした。

ついに脳が気づく。

これはお湯。

お湯はコーヒーではない。

なので、お湯はお湯の味がする。

コーヒーはやはりコーヒーを淹れねばならない。

当たりまえの証明を終えた自分は、おとなしくコーヒーを淹れた。

 

お水に熱を加え、インスタントコーヒーを加える。

さらにそこに牛乳まで入れる。

このコーヒーは地球と宇宙の法則、人間の労働によって目の前にある。

そう思って飲むコーヒーは、贅沢の味がした。

 

 

 

 

 

S氏の仕事

毎朝8時に起きて30分で支度、着心地のよくない服を着て、乗り物に30分揺られる。9時、ある場所に全員が集まる。ここでは各自自由に過ごしていい。ただし、人としゃべる際は敬語。飲み物は、水・お茶・コーヒーのみ。ガムやアメを除いて、食事は禁止。トイレもあまり行きすぎず、寝てはいけない。もちろん、服を着替えることもしてはいけない。ただ、それ以外なら何をしてもいい。ゲームをしてもいいし、本を読んでもいい。みんなで遊んでもいいし、個室で一人の時間を楽しんでもいい。プライバシーは保護され、好きな時間を過ごすことができる。

 

12時30分、これより一時間、昼食を取ることが許される。コンビニや外食をしてもいいし、持ち込んだものを食べてもいい。ただし、食べるものは、あまり周囲に迷惑をかけないものとする。

 

午後、午前と同じように過ごし、五時になるのを待つ。五時になると帰宅が許可される。残りたければ残ってもいいが、これ以降は好きに帰ってよい。

帰る前には、事務室へ出向き、行き帰りの交通費を受け取る。

30分乗り物に揺られ、帰路につく。服を着替え、好きな時間を過ごす。

 

S氏は週5日、以上のような生活を送っている。

以前は会社員をしていたS氏だが、ある日突然、会社の人員整理によって解雇されてしまった。行き場を失い夜の街を歩いていたところ、男に声をかけられ今の仕事をするようになったという。保険も手当も充実しており、S氏は不満なく日々を過ごしている。

謝礼は毎月数万円支払われているとのことだが、なぜかその額は前の会社の給料をちょうど2で割ったものらしい。

S氏は言う。

「給料は私の仕事に支払われていたのではなく、私の自由にも支払われていたんですね」

本屋離れをした方がいい人間

 

どうやら、自分はストレスが溜まると、本屋に行くよう出来ているらしい。

今まで、自分が本屋に行くのは、本が好きだから、とか、もはや習慣になっているから、とかそういう理由だと思っていた。実際、小説を読んでいた頃はワクワクしながら次に読む本を決めに行っていた。だから、あながち間違ってはいないと思う。でも、最近の自分はそんな理由で本屋に行っていたわけではないと思う。

 

1.2年前から小説を読む頻度が落ち、ぼんやりとマンガを買うようになった。日々のストレスをマンガを買うことで発散していたのだと思う。ちょうどマンガが無料で読めるアプリや違法サイトが流行り出した時期で、「紙のマンガを支えてるのは自分だ」とか「お金を払って読んでる自分は違う」みたいな気持ちがあった。

少し人に対して優越感を感じたかったのだと思う。「マンガを買う」ということでアイデンティティを演出したかったし、「分かる人には分かるマンガ」みたいなものと出会って自分に希少価値を出そうとしていた。

それに、「マンガなら読んでる人口も多いし、もしかしたら気の合う人ができるかもしれない」みたいな期待もあったと思う。自分からコミュニケーションを取りにいけないので、人と自分を繋いでくれるツールをいつも探していた。惨めだなと自分でも思う。

 

とにかく、その日その日のストレスを手っ取り早くマンガを使って発散させたかった。マンガを買うことで「今日は何もしなかった」から逃れることができた。クソみたいな自分への言い訳をひたすら繰り返していた。マンガはたいそう便利だった。

 

当初の純粋な心は忘れ去り、ただただ惰性と焦りから本屋に行くようになっていた。自分でもマンガばかりになっていることは気づいていたので、小説コーナーに顔を覗かせたりはしたものの、結局買うのはマンガだった。ストレスは少しずつ大きくなり、それは一ヶ月の予算から足が出るという形で表れてきた。わりと限界に近づいていた。

 

つい一ヶ月ほど前、色々あって本を買うのをAmazonに切り替えた。Amazonでは本をまとめて買ったほうがポイントがつく。サイバーマンデーが開催されていたこともあり、これから本はまとめて買うことを自分の中で決めた。すると、カートに入れていたマンガが実はそれほど欲しくないことに気づいた。カートに入れて数日もすると、「いや、買うほどじゃないな」と思うようになったのだ。冬休みに入ってストレスが少なかったこともある。思考が比較的クリアになり、健全な買い物が久しぶりにできた。

しかし、冬休みが終わりテストの時期が来た。当然、やりたくもない勉強をやってストレスを溜め、また、勉強をしない・できない自分に嫌悪を感じ始めた。すると、あれほどAmazonでの健全な買い物に感激していた自分が、心を改めたはずの自分が、本屋に自然と吸い込まれていったのである。ポッケに手を突っ込み、顔をうつむかせながら、惰性で本屋に入っていったのである。その時、今まで自分が上に書いたような理由で本屋に来ていたことに気がついた。今までの自分がそんな理由で本屋に足を運んでいたことに今更気づいたのだ。なんとか思いとどまってマンガは買わなかった。ある程度Amazonの買い物が思考に根付いていたおかげだと思う。

明確な理由なく本屋に行きたくなったら危険信号。ようやくそれを認識することができた。これからは外的ストレスを上手くコントロールし、ちゃんと管理された買い物を心がけようと思う。

少し真面目に書こうとしたけど、普段から長文を真面目に書くことがないせいでボロボロの文体になってしまった。こういう基本的なところから変えていかないと、一生痛み止めを飲み続ける人生になりそうだなと思いつつ、ここでおわりにしたいと思います。

3日おきに脱皮してる。

 

 

おけおめことよろ。

 

あけましたね。

今年は年賀状0枚かと思っていたら、善き後輩から一枚いただきました。この一枚を何よりも大切にしていきたいと思います。

 

さて、話は変わりまして、最近、すぐに脱皮します。精神的な意味で。

 

主に将来的なことでうんうん悩んでいるんですけども、こっちを調べてう~んうん、あっちを調べてう~んうん。悩みに悩み、ちょっと手を出してはすぐ引っ込め。そして、エイヤッと中を覗いてみたらあら不思議、ここは腐海だったのかといった具合。(そういえば、昨日ナウシカでしたね)。通行料を取られてそそくさ逃げ出す。そんな毎日です。

 

抽象的すぎて何を言っているのかわからないでしょうが、とにかく、色んな失敗をしています。失敗しては「よし次だ」と挑んでまた失敗しています。

なんか「賢者は知恵から学ぶ~」みたいなやつがありましたよね。

あれでいえば圧倒的な愚者的生活を送っています。

 

ただ、失敗までのサイクルが短い。サイクルが短いのか、普通の人だったら気づくような地雷をあえて踏んで確認しているのか。できれば前者であってほしい。でも、愚者敵経験則から言うと後者。

 

 で、ここからが肝心なお話。人間はストレスを与えられることで成長します。しかし、成長=全回復ではありません。脳みそが一新されようと、蓄積されたストレスは残ります。なので、今たいへんにしんどいのです。しんどいですけど止まってられないんです。なんか夢追い人みたいでしょう。

 

今の状態を表すなら、生活指導部に被疑者として呼ばれるときの体調ですよ。食欲減退、疲労、浅い呼吸、うつ気味、ですよ。不安と恐怖でいっぱいいっぱいですよ。そんな状態を日に何回か繰り返しているので、人間社会に精神が拒絶反応を起こす日も近いのではと危惧しているのです。

 

なので、誰か代わってください。皮ならありますので。

 

 

 

 

寝る。

伊藤ハム

ハムの生食いにはまっている。

伊藤ハムのハムはたいへんおいしい。たまに増量なんかもやっていてたいへんお得だ。

なので伊藤ハムが好きだ。伊藤ハムに勝るものはない。

最近、お歳暮のハムが家にストックされ始めているが、それでも伊藤ハムが好きだ。

伊藤ハムはいいぞ。全人類伊藤ハムを推していけ。

なんか野球チームが勝つと安くなるとこあるでしょ?ソーセージだっけ

そうそう、日本ハム。今思い出した、日本ハム

にっぽんはむファイターズでしょ。知ってますよ。この世界はお見通しですよ。

で!日本ハムより伊藤ハムでしょって話ですよ。

この前、というかだいぶ前に伊藤ハムのパッケージの裏みたんですよ。

そしたらね、「砂糖」入ってるんですよ。そら美味いわ。他にも色々入っててね、やっぱハムと言えどいろいろ入って美味しくしてあるんだなぁ、って思いましたよ。

毎朝ハムをつまんで食べてるんですけどね、飽きないんですよこれが。

チルド室から伊藤ハムのやつを出すでしょ?そしてパッケージの端をペロってちょっと開けるんです。んでもって2.3枚つまみだしたらそのまま食べるなりカップスープに入れたりするんですよ。飽きないね。朝に起きれた日はだいたいこれ。

伊藤ハムって何回書いたんだろう。とにかく伊藤ハムはいいぞ!!おわり!!!!!

 

追記:

美味しいのは「さわやかパック うすぎりホワイトロース」。

www.itoham.co.jp

突然話しかけてくるおじいさん達VS新しい価値観

街で突然話しかけてくるおじいさんがいる。

一応話しかけられた身としては「誰ですかあなた」ではなく愛想よく応対する。でも、おじいさんのタイプによって感じる印象はぜんぜん違うし、愛想の度合いも違ってくる。

おじいさんが何を理由に話しかけて来ているか、それを見極めることでおじいさんへの接し方も楽になると思う。突然話しかけてくるおじいさんの正体とは。おじいさんは何を理由にどこへ向かうのか。おじいさんのタイプを3つに分けて整理してみた。

 

 1.若者に話しかけたい

1の理由で話しかけてくる人は割と温和な人が多いと思う。そんなに話しかけられたことがあるわけじゃないけど、「最近の人は普段何をしてるの?」とか「昔のこの辺はこうだったんだよ」とか比較的ほのぼのした話題が多い。

僕は若者を知ろうとするおじいさんに出会うと温かい気持ちになる。若者の中から選ばれたもの(もしくは暇そうだった者)としておじいさんに協力してあげたくなる。昔の話をしてくれる人も多少お節介でも面白いエピソードが聞けて「え、おじいさん◯◯してた人なんですか?」みたいな発見があるのでいいと思う。アスリートや芸能人とかじゃない、いわゆる普通の人のハイライトを聞かせてもらえる機会ってなかなかないし、結構貴重だなと思ったりもする。

中には急に政治的な話をふっかけてきたり、自分の体験談ですらない戦争体験談を熱弁してくる人もいる。そういう人たちには「それがあなたの得意分野なんですね、でも僕は違いますので他所でやってください」という態度でできるだけ早く去るようにしている。僕の急に話しかけてくる人へのお愛想ラインはここだ。「アンタいきなり話しかけて人の時間を拘束しようとしてんだからせめて面白い話しなさいよ」と僕の中のマツコも言っている。僕の中のマツコは割と信頼できるのでたまに口から直接喋ったりする。聞けた人はラッキーである。

 

2.そういう気質の人

2の理由の人はそういう人のなので仕方がない。僕みたいに人との境界に強固な壁を築いてる人もいれば、人の家に勝手に上がり込んでくる人もいる。色々の人がいる。あっちが好き勝手にするならこっちも好きにする。最低限のお愛想だけ言って逃げる。「私は好きにした」とだけ書き置いてプレジャーボートから姿を消すのだ。

でも、あとで「あの人認知症だったのかも…」とか思って反省したりもする。難しい。

 

3.寂しい

3の理由は大変よく分かる。自分も「老後は誰ともコミュニケーションを取らずに死んでいくのだろうか…」とぼんやりとした不安が頭をよぎることがある。幸い、自分はSNSのある時代に生まれたので、ネット上のコミュニケーションで不安を紛らわすことができなくもない。でも、あの人たちにとってSNSは肌に馴染んだものではなく、「若者のもの」という意識があるだろう。

「今さら新しいものを覚えたっていつ死ぬかわからないし」と言う人が結構いる。「昔ながらのほうが人間味がある」という人もいる。僕も意固地になって同じスマホを6年使い続け、「自分は古いもののほうが好きだ、新しいのは肌に合わない」と言い張っていた時期がある。どんどん機能が衰えていくスマホを「まだ使える」と使い続け、いよいよ挙動が怪しくなるまで機種変をしなかった。今では立派なiPhoneユーザーとして新しいスマホ生活を楽しんでいるが、「もっと早くiPhoneにしておけばよかった」とはあまり言いたくない。6年間分の自分が亡霊となって僕に取り憑いているからだ。

過去の自分を全否定することは苦しい。否定される期間が長ければ長いほど苦しさは増す。新しいものを受け入れることは過去の自分とさよならすることであり、そこにはかなりの未練や寂しさがつきまとう。

本来、人間は新しくて便利なものが登場したら好奇心の方が勝る。「みんなが良いって言ってるんだから良いんだろう」と素直に受け止められる人が得をする。ろくに情報も得ずに否定的に疑ってかかる人は後々大変な思いをする。

「新しいものの良さ」より「新しいものを受け入れることで失うもの」の方に目が行ってしまう気持ちは大変良くわかる。それに、案外人から言われないと分からないということも分かる。僕もこの文章を書いていてようやく整理できてきたところがある。新旧の比較よりも自分の今あるものを守ろうとすることは自然だと思う。でも、現実は残酷で、嫌でも新しいものの情報は耳に入ってくる。少しずつ入ってくる「新しいものの良さ」、逆に聞こえてくる「昔の不便さ」、それが一旦守りに入ってしまった自分の価値観をチクチク刺激してくる。

間違いを素直に認めれない人がいる。僕とかである。「あっ、これは自分にも非があるぞ」と思っても素直に謝れないし、絶対に10:0にしてなるものかという気質は未だに健在である。「人間なんだからミスするんじゃん、ミスしないことが普通だと思ってるそっちのほうがおかしいんだって」ぐらいに開き直ってるところまである。

これは価値観の話でも同じで、過去の価値観を持った自分が、薄々新しい価値観に気づき始めてる自分に素直になれないのだ。僕の生き方はこれの塊と言っても過言ではない。よくも知らないくせに偏見で拒否し続け、いざ受け入れたら受け入れたで過去の時間を後悔する。その繰り返しである。しかし、この偏見が生み出した得体の知れない思考をたま~に「面白い」と言ったもらえたりするのでなんとか今日まで生き延びてこれたところもある。人生には何事にも最後のセイフティーネットはあるものだなぁ、と宇宙の神秘に感謝したりしている。

素直になるべし!!みたいな強い主張はないけれど、新しい価値観に乗り換えるのが遅くなればなるほどあとで後悔することになる事が多い。長寿の時代なんだから、おじいさん方も新しいものを受け入れてくれたらなぁ~と思う。

あと今日、行きつけの定食屋で食べ収めしようとした時、世間話に見せかけて政治と戦争の話ふっかけてきたおじいさん、許さない。

無印の収納ケースを本棚代わりにすると後悔する話

年末ですね。

新年に向けて心を入れ替える時期、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

そろそろ大掃除の頃かと思われますが、みなさん捗ってらっしゃいますでしょうか。私はというと、全く捗っていません。。部屋の中は先日行った整理整頓によって比較的キレイですが、押し入れの中には去年の大掃除で「保留」にしたダンボールが一年経っても放置されたままです。

押入れの中といえば、マンガ用の収納ケースが崩壊しかけています。収納ケースの使用容量を守らずマンガを詰め込み、そのケースを3段も重ねた結果、一番下の収納ケースが重さに耐えられずに変形してしまいました。

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無残にも変形した収納ケース

本棚の許容量が限界に達し、本が床に積み上がっていく状態を解決すべく導入された押し入れ式収納術ですが、収納コストをケチったせいで破綻の兆しが見え始めました。

上の写真の収納ケースはニトリで購入したものですが、これは本来、衣装ケースとしての使用を想定して作られたものです。マンガの収納、ましてやそれを何段も積み上げて使うことは想定されていません。

私が悪いのです。決して、収納術として衣装ケースを勧めていたブロガーさんは悪くないのです。調子に乗って3段も積み上げた私が悪いのです。「なんか一段目の引き出し開きにくくなってない?」「なんか歪んでない?」「開けようとすると本がガッってなる、ニトリ💢💢」と放置と責任転嫁を続けていた私が悪いのです。

衣装ケースとしてはお得なんですよ。奥行きもあるし高さも数種類選べるし、安いし。ニトリの名誉のためにも補足しておかねば。

というわけで、みなさんも今年の大掃除に際し、本を整理することがあるかと思いますが、節約のためとはいえ収納ケースを重ねることはやめましょう。たとえ二段重ねでも、二段目の収納ケースの底が一段目の天井を圧迫しますので、あまりいい収納とは言えません。一段だけならベット下の収納として役立つかもしれません。ただしマンガをパンパンに入れるなら引き出しを開けるときの重さはある程度覚悟しておいたほうがいいかもしれません。一段だけで、それほど重くしないならニトリの収納ケースはお得ですよ。

ニトリの収納ケースを褒めているのか貶しているのかよく分からない文章になりましたが、私が伝えたかったことは「私の二の舞にならないでください」ということです。

それでは、これから大掃除する方はがんばってください。終わった方はお疲れ様でした。みなさんが気持ちよく新年を迎えられますように。