楽天スタートボーナスチャンスの罠 ~失われし750ポイント~

大変悔しい思いをした。楽天でできるだけ多くのポイントが貰えるよう、情報を集め。慎重に行動していたはずだった。なのに、たった一度のミスで貰えるはずだった750ポイントを失った。自分の愚かさを呪った。もうこんな思いはしたくない。

自分への戒めとして、誰かの役に立てばという思いで、ここに失敗の記録を残すことにする。

 

スタートボーナスチャンス

「スタートボーナスチャンス」というものがある。

新規会員登録して初めてOOを利用した場合、1000ポイントあげちゃうよ というキャンペーンである。各サービスごとにもらえる。

注意:「初めて」に何かとポイントが付くのでとりあえず会員登録したら何にも手を付けないこと。

 

まずエントリーする(大変重要である。エントリーせずに何かを利用してしまうと、そのサービスにおいて「初めてのお客さん」でなくなってしまう)

 

利用しやすいサービス4つ

楽天市場を初めて利用する&5000円以上買う(1000ポイント)

楽天市場の初めてアプリを落とす&アプリから5000円以上買う(1000ポイント)

楽天学割に新規登録する&5000円以上買う(1000ポイント)

楽天学割とは 登録無料・送料無料券が24枚もらえてポイントも多くもらえる 

        色々お得なサービス

楽天カードを作る 普通に作っても5000ポイント貰えるが、サービスを一個達成したことになる

 

追記:5000円以上購入、は併用できない可能性あり。追って修正。

 

他にも色々あるので自分の使いやすいものを調べてみよう。

 

とりあえず、自分の利用しやすいサービスを利用する。すると1000ポイントずつ貰える。つまりはそういうことである。この時点で大変お得だということは分かると思う。しかし、楽天はこれだけでは終わらない。

 

まとめて使ってボーナスUP!キャンペーン

ここからが重要。使ったサービスの数に応じてポイントがさらに加算される

1サービスで+1000ポイント

2サービスで+1250ポイント

3サービスで+1500ポイント

4サービスで+1750ポイント

5サービスで+2000ポイント

合わせて7500ポイント

 

この書き方に惑わされた。結局は利用したサービス数に応じて250,500,750,1000(合計2500)が加算されていくということだったのだ。しかも、詳細欄を読むか7500から逆算しないと加算形式がどういったものなのかイマイチ分かりにくい。

初回利用1000円OFFクーポンの罠

楽天ブックスのページを見ていた時、初回1000円オフクーポンあげるよ、と言われたのであっさりもらってしまった。それがいけなかった。スタートボーナスチャンスの詳細でもクーポン分を引いた上で5000円買ってくれればOKよ、的な書き方してあったし、という軽い気持ちが良くなかった。

楽天市場初回利用の詳細には「クーポンを受け取った人はポイントあげません」と書かれていたのだ。

これを受け取ったが最後、「楽天市場で初めて買い物」のサービスと併用できなくなってしまう。これは大打撃である。利用サービスの数が減るのだ。僕は上4つのサービスを利用する気でいたが、1つのサービスの効力を失ったせいで+750の権利も失ったのだ。悔やんでも悔やみきれない。

追記:

楽天市場で初めてのお買い物」1000p付与されないだけで、「まとめて使ってボーナスUP!キャンペーン」の750pは付与されるようです。ポイントは付与されませんが、サービスは達成したことになっていました。

 

 

楽天の悪いところ

・キャンペーン情報やクーポン情報が散らばっていて分かりにくい

・詳細をよく読まないと併用云々やら条件やらで利用できないことがある

・とにかく書き方が誤解をまねきやすいところにある。

 

このキャンペーンは2018年12月の話です。たぶん2019年からも同じようなキャンペーンが毎月開催されると思います。もし、これから新規会員登録されるなら、くれぐれも慎重にポイントをGETしてください。一つのミスが結構響きますので。

 

                ~おわり~

僕の心にガンジーを。

突然ですが、人の言葉って怖くないですか。

そもそも自分以外の人って怖くないですか。

何を考えてるのかわからないし、何を言いたいのかもわからないし、何を言ってほしいのかもわからないし。僕が著しく人の気持ちを理解できない、っていうのは別にしても怖いじゃないですか。

たとえば僕がヘラヘラしていたとしましょう。すると相手は「真面目な話だから」と言います。相手を怒らせたくないので真面目な態度を取ります。ここでふと思うわけです。「なんの権利があってそんな指図をされにゃならんのだ」脳内野党は大荒れです。現政権のとった「真面目にする」という方針に「なぜ相手国の言いなりになったのか」とブーイングの嵐です。しかしですよ、一度とってしまった態度はそう簡単には崩せません。「やはり不真面目にいこう」と態度を崩せば「さっきは真面目にすると約束したじゃないか」と相手国から抗議の声明が発表されかねません。もしくは国交を断絶されるかもしれません。

そこで僕は思うわけです。「これは先手を打ったもん勝ちだな」と。一度でも相手の言うとおりにすると、そこで「約束」が結ばれてしまうわけです。「あなたの前ではこう致します」という約束をしてしまうわけです。正確には約束したということになってしまいます。しかも、自分が言っていることは当然だという態度であればあるほどその効果は大きくなってしまいます。自分に自身を持っている人が有利なんです。

これは大変恐ろしいことです。自分に自信を持っている人はどんどん相手に「一旦こうして」と約束を結ばせ、次第に支配下に置いていくのです。それを繰り返すことで更に自信をつけ、さらに支配力を増大させるのです。奴らを野放しにしてはいけません。コミュニケーション弱者である我々は積極的にコミュニケーションを断絶していかねばなりません。一度たりとも言うことを聞いてなるものか、僕は一生ヘラヘラするんだという気概でいかないといけません。

こちらから主導権を握ったり言葉で相手を縛り付けたりしてはいけません。あくまで自分のペースを崩さないことだけをモットーとして生きるのです。さすれば、支配下に置かれた人間たちの心も正しい光に導かれるでしょう。我々はガンジーになるのです。

相手に従わない、それだけを胸にこのコミュニケーション地獄を生き抜いて行こうではないですか。立ち上がれ、同志諸君!!ベンセレーモス!!

 

インプット・アウトプット・インプット

映画の内容をすぐに忘れる。

心の底で「どうせまたいつでも観れる」と思っているからだと思う。 

2時間というのは微妙な時間で、「いつでも取り返せる」感はすごくあるのに、いざ見返そうとすると途端に面倒になる時間でもある。なのに、「またいつでも観れる」という気持ちで観てしまう。テスト勉強のたびに思うアレに似ている。

そもそも2時間お座りして映画を観ることが難しい。もともと集中できない体質なので観ている途中で他に気が行ってしまう。家で映画を観る時、一時停止ボタンを押さなかったことは一度もないと思う。逆に、どうでもいいセリフを聞き漏らすまいとして何度も逆再生ボタンを押したりする。たいへん効率が悪い。

なので、映画を観てその場では「いい映画だったな~」と思っても、映画の内容がちゃんと整理されていないので、ぐちゃっとした断片的な記憶しか残らない。

時々、映画の内容を隅から隅まで覚えている人がいる。あの人達を見ていると、頭の倉庫にパッケージングされた映画がきれいに並んでいる映像が浮かぶ。たいへん羨ましいと思う。

自分の頭には倉庫が建設されておらず、作業体制も整っていない。しかも、メモを書いても覚えていないし、読んでもイマイチピンとこない。なので書かなくなったし、余計忘れやすくなった。頭の病気を疑ってイチョウのサプリを飲んだりもした。少し効いた気もしたけど、「それは老人が飲むものだ」と言われてやめた。どん詰まりである。

 

たぶん、人は人に話すことで覚えるんじゃないかと思う。誰にでも伝わる言葉で、相手に伝わるよう、脳みそを働かせて喋るから記憶に残るんだと思う。映画を観た記憶➕映画を喋った記憶×人数、で何回も反芻しているから覚えているんだと思う。これは映画に限らず、大体の記憶に当てはまると思う。

過去の自分が言葉に結びつけていたイメージが、今では違うイメージになっていることが往々にしてある。「犬」という言葉から連想される犬のイメージが、その時々によってゴールデンレトリーバーだったり柴犬だったりするように。メモを取るときの自分は、相手が自分だから言葉を省力するし、わりとイメージに頼りがちである。でも、読み返すときの自分は割と別人なので伝わらない。この悪循環がメモの致命的な部分だと思う。

3ヶ月毎に人が変わるのでもはやメモは役に立ちようがない。あと字が汚いし読めないし。かといって、映画の話をするような相手もいない。お友達が極めて少ないので。

世界から猫が消えたなら』のツタヤみたいな友だちが欲しい。

1000文字以上書くと脳のキャパがオーバーするらしく、もう書けないので結論だけ書くと、せっかく作ったこの「twitterにはのせられないよ」に映画の備忘録も少し書こうかな、と。なので何卒よろしくおねがいします。

人は脳みそが眠すぎると無理という話

この文章を朝の5時半に書いているということ。

最近のあまりに自堕落すぎる生活に終止符を打つべく、なんか文章でも書いて脳をリセットしようと試みるも、あまりの眠さに脳が麻痺してしまい、タイピングする手もおぼつかないということ。

この2日間はアマゾンプライムでこのすばを観ていました。月曜のレポートはまだ書いていません。まだ書いていないのでこのすばを観ていました。いよいよ現実逃避の具合が酷くなってきたと自覚しています。

そもそも、中高は別に頑張らなくとも進学に関係のないテストも大真面目に勉強できていたというのに、なぜ大学に入ってから年々学業に身が入らなくなったのでしょうか。

ひとえに「学科に身を置けば何かしら勉強せざるを得ないだろう」というスタンスで大学に入学したからではないでしょうか。そしてズルズルと最低限の勉強しかしてこなかった結果がこれであると。たいへん申し訳ない、色々と。

でも後悔まで行っていないのがせめてもの救いというもので、自由と堕落を極め、孤独の淵をさまよい、失敗に失敗を上塗りして得たこの自己肯定スキルは他のどんな勉強にも代えがたいものを僕にもたらしてくれるのです。

しかし、いくら自分で自分を肯定しようとも、他人の心まではどうしようもなく、結果単位を落としたり人間に距離を置かれたりするわけで、それで更に自分に傷をつけるわけで。でも、いつからか自分でつけた傷にどう対処するか、が楽しくなってしまいまして。傷がハードになればなるほど興奮する自分がおりまして。より不利な自分がいればいるほど弁護のしがいがあるわけで。

もはや精神がセルフSMで構築されてしまった今、社会的な自己保存能力はあやういものになっています。ここで踏みとどまれねばなりません。

なので、一旦文章にすることで、なんとか自分に危機感をもたせようと日々精進しています。しかし、ここ数日それを怠っていました。その結果がレポート遅延です。もはや自分にとって文章を書くことは生命線です。この生命線をなくしてはもはやアイデンティティの崩壊、自堕落ニート、社会的死は確実でしょう。なんとかがんばります。がんばりますのでどうか。何卒。

12月14日深夜3時の反省会

なんでこんな時間まで起きているのか。

そもそもクリア済みのグラセフをやっている時間はなんだったのか。

お前は今日マルクスを読むんじゃなかったのか。土日に予定があるから今からレポートをやるんじゃなかったのか。

そもそもabemaでフルハウスやってる間だけやろうって決めたじゃん。なんでフルハウス終わってからもやってんだよ。いつもそうだよ。自己管理能力が皆無だよ。

アホなのだ。全体的にアホなのだ。もう6年はこの堕落を続けている。

やらねばならんと思いつつやれなくなったのはいつからか。

後回し後回しで何も消化できず自己嫌悪ばかり無駄に重ねて、それでも一向に改善されない体を引きずって、どうにかこうにか生き延びて、もうすぐ社会人になろうとしている馬鹿とは私のことだ!!!死!!!!!

一向に反省しないし、なんなら反省も後回しにするし、一丁前に頭の中で反省しても実行に移したことなどほとんどない。脳みそと肉体が連携して成功したことのどれだけ少ないことか。

とりあえず夜更かしをやめよう。でも夜更かししたほうがアイデアが浮かぶぞ。いやいや朝にスッキリ起きたことが少ないからなんとも言えないぞ。事実、たまに6時とかに起きた日は午前に何かしらのタスクをこなしていたこともあったではないか。いやはや、嘆かわしや嘆かわしや。いまさら整った生活リズム、真正面からなにかに挑む勇気、何一つとして後回しにしない生活、そんなものが手に入ったとしてそれを受け入れられるだろうか。否だ。精神の抜本的改変を必要とする!!我々は、人格を初期化し、あらゆる正解を正解として受け入れられるようにしなければならない!!

え、それって死ぬってこと?死にたくないんやけど。

もはや自我と離れがたいほどに癒着してしまった堕落精神は手のつけようがないほど肥大化してしまった。心臓と一体化してしまった敵、仲間ごと撃たねば倒せない、どうする主人公。こういう場合、一旦電気ショックで心臓止めてからまた蘇生させるのが定番。定番だけども!!心はそうもいかんのですね。あの人に出会って稲妻に撃たれたように人が変わりました、とか宗教だもの。

なにも宗教を批判する気はないけれど、どうせ信じるなら自分オリジナルの神がいい。でも神って他人じゃん。人様の言うことを素直に聞けていたらこんなにはならなかったよ。じゃあどうすればいいか、自分が神になればいいんですね。これはしょうもない展開になってきたなと思います。もう正直この段落から脳みそが冷めてきましたもの。

そろそろ書くの飽きました。おわります。

国は目薬を無償で配布しろ

国は目薬を無償で配布しろ


べつに政治的な主張じゃないので安心して聞いてほしい。

僕は目が悪い。中学3年生から「こりゃだめだ」と思ってメガネをかけ始めた。

最初は抵抗があったし、「メガネ」にいい印象を持っていなかった。コンタクトも考えたけど、目に指を突っ込むことに恐怖感があった。だから、黒縁の「ザ・メガネ」なフツーのメガネを買ってもらった。

高校生、少し色気づく頃、僕は一度真剣にコンタクトを検討した。でもあっさりと無理だ諦めた。僕は昔、逆まつげの手術を受けたことがある。まつげが内側に丸まっちゃうから治そうね~、とよく分からないままに手術を受けた。結果、たぶん逆まつげは治ったと思う。他の人に比べたらまつげの反り具合に元気はないかもだけど、別にちゃんと外側を向いている。でも一つ問題があった。まつげが目に入るのだ。逆まつげの人あるあるらしいけど、まつげが抜けやすく、かつ目に入りやすいのだ。毛の向きは治ったけど、毛の特性はどうしようもなかったらしい。一日一回は目に異物感を感じる。当然、そんな状態ではコンタクトはつけられない。僕はあえなくコンタクトを断念することにした。

メガネはどこまでいってもメガネであって「個性」=「メガネ」感が否めない。お調子者だってメガネをかけているけど、なんかスタイリッシュだったり、おもしろメガネだったり、「メガネ」に「個性」がある。それに対して僕はフツーの黒縁。何も喋らなくても「フツーのメガネ」程度のやつだと思われる(被害妄想である)。

それにやっぱり色々と不自由を感じる。授業中に寝るときはメガネを外す。メガネを掛けてない人間はうつらうつらしながらスッと眠りの世界に入っていける。でもメガネを掛けてる人間は違う。寝るなら寝るでメガネを外さないといけない。もし、メガネを掛けたまま寝ればフレームが歪んで絶望的なことになる。それにフツーに寝にくい。

メガネを掛けている人間は、「寝る」=「メガネを外す」なので一度寝る決断をしてからでないと寝れない。なので、うつらうつらしながらそのまま寝れる人種がうらやましい。

でも、そんなことは割とどうでもいい。慣れっちゃあ慣れだから。それよりも大事でメガネ人にとっての生命線とも言える問題がある。それは、「メガネを外す」=「寝る」の方程式が世間様に知れ渡っていることだ。たとえば先生が教壇でクラスを見渡していたとしよう。腕を組んで机にのせてる「警戒レベル:1」、明らかに目が半開き・首が座ってない「警戒レベル:2」、うつむいて顔が見えない「警戒レベル:3」、メガネを外している「おい、お前!!」である。

メガネをしてる人間がメガネを外すことは、先生に対する「寝ますよ」の宣戦布告である。別にこっちはなんとも思っていない、ただ寝るだけだ。でも先生からしたら立派な挑発行為だ。だって、「寝る」って決めて寝てるんだもの。気がついたら寝てたやつとは違うんだもの。まったくもって遺憾である。メガネを掛けていると言うだけでなぜこんな扱いを受けねばならないのか、こっちだって掛けたくて掛けてるんじゃないよ。

で、結局、何が言いたいか。それはもっと「目を大切にしろ」と大人が言わないといけないこと・言ってほしかったこと。「最悪、目悪くなってもコンタクトすればいっか~」なんて思っていたらコンタクトできない人間だった、なんてことになってほしくない。僕は中学生の時に深夜まで起きてアホみたいにゲームをしていたけど、こんなことになるなら辞めときゃよかったと思ってる。目が悪いとメガネ代、コンタクト代、眼科代、目薬代、といろいろお金がかかってくる。しかも、メガネはうつ伏せになったり寝転んだりできないし、コンタクトは付け外しが面倒らしい。僕はメガネであることで色々な不便をこうむってきた。あと目薬代も財布に痛い。

「目は一度悪くなったら戻らない」、これを本当のことだと受け入れたのは最近だ。ブルーベリーのアレとか視力回復法とかレーシックとか、まるで視力は回復するかのような宣伝が巷にあふれている。でも、元の状態に戻ることはない。これ以上悪くならないようにしたり、一時的な視力低下を回復させたり、眼球をけずって見えやすくしたり、色々書いてはいるけど結局生まれたときの目には戻らないのだ。

だから僕は、「目を大切にすること」を学校でもっと言ってほしかったし、目薬をさすっていう行動で目を大事にする習慣をつけておきたかった。目薬の効果云々はそれほど大事じゃない、大事なのは自分の目に関心を持つことだ。言葉で言われてもいつか忘れてしまう。だから自分の行動で目を大事にすることが必要だと思う。

だから僕は国に目薬を無償で配布してほしい。特に子供に。できれば大人にも。そうすれば、目を悪くする子供は少しは減ると思う。それに、僕の財布も少し助かる。